CATEGORY:3.11震災
2013年07月16日
被災地 2
7月11日で震災から2年4カ月が経過した。
月命日にあたる11日は親友と2人で、彼の姉上の亡くなった場所に花を手向けに行った。
被災地は未だに復興とは程遠い現状である。
何故かC45Cさんの実物サイトと同じ位に3.11の記事についてメッセージが多いので、今日は続きを書きたいと思う。
3.11の夜、付近の現状を見終え自宅に戻った私は、付近の被災者が集まる駅のロータリーの事が気になり再度訪れてみた。
夕方よりは人数が少し減ってはいたが、それでも20数名は寒空の中で夜を過ごしていた。
車で逃げてきて車内で過ごす人や倒壊を免れた駅の建物の庇の下で震えている人など色々だった。
不気味な余震も継続しているし、心理的に一番怖かった時間帯だと思う。
私は自宅に戻り母と相談し、簡易のガスコンロとインスタントコーヒー・砂糖・缶詰・買い置きしてあったインスタントラーメンを持って再度駅に戻った。
あまり大きくない鍋でお湯を沸かし、まずは全員にコーヒーか砂糖湯を配った。
子供と避難していた母親らしき女性達にも手伝ってもらいラーメンを作ったり缶詰を配布していたりしていると、近隣で倒壊が無かった家からも多数の人と食糧や毛布などの物資が集まり始めた。
一度も体験した事の無い極限状態でも人間は助け合えるのだと思う、これは本当に素晴らしい事だと実感した。
自宅に戻り布団に入ったのは1時を過ぎていたと思う。
ラジオを聴きながら情報収集していた母から「宮城で数百の遺体が上がった」とか「岩手沿岸は壊滅状態だ」とか色々と聞かされ暗澹たる思いになったが、この時も情報は錯綜していて本当の事を把握出来る状態では無かった。
朝にはスタッフを探しに行こうと思っている旨を母に告げ、何十年ぶりかで祖母と母親と布団を並べて眠った。
3.12の早朝、水の確保をすべく昨夜から考えていた湧水の有る場所へ徒歩で向かった。
田舎暮らしが幸いして徒歩圏内に湧水がある場所が有る事には本当に感謝した。
そこには早朝からポリタンクを持った人達が集まっており口々に現状の話をしていた。
家ごと無い人・家族の安否が不明な人・など色々だった・・・
この頃になると地元の消防隊や警察などがチラホラと見えるようになり、少しだけ安心したのを覚えているが、実際はもっと早く彼等は到着していたのに私が気がつかないだけだったかもしれない。
自衛隊・警察・消防隊の皆さんの被災地での活躍はとても素晴らしかった。
水の確保を終えてからルートを探して大船渡市内中心部に向けて出発してのは8:00頃だったと思う。
警察や自衛隊の車両が通過するために少しだけ瓦礫が撤去された道を発見し、なんとか大船渡市内の内陸部までは辿り着いたのだが、朝の環七より強烈な渋滞が起こっており中心部へは車では進めなくなっていた。
色々と考えて近所に住む友人からオートバイを借り市内中心部へ向かう事にした。
バイクに乗り中心部へ向かう時の光景はまさに地獄絵図と言える状況だった・・・
被災地は今だ復興には程遠い現状とのことに胸が痛くなります。
こちらでは震災のことについての話題も少なくなりました。
原発関連のニュースが流れても自分も含めあまりの関心の無さに情けなく思います。
でもSONNYさんのような被災地の方々がこうやって現状を発信し続けることで我々もまた気づかされます。
ありふれた言葉かもしれませんが頑張って下さい。
自分は自分に出来ることで(小さなことかもですが。。。)復興のお手伝いをさせて頂きます。
メッセージありがとうございます
あっと言う間の2年でした。
3.11は昨日のように今でも鮮明に記憶に残っております。
dokatinさんの仰る通り、今の日本では被災地=福島原発被害と、同じ被災地に住んでいる私ですら思う事があります。
天災は大企業の金儲けの道具、人災は税金を投入して隠蔽。
最近では選挙の道具にすらならなくなってきました、きっとこのまま忘れ去られてしまう事でしょう。
とても残念な現状です・・・・