CATEGORY:3.11震災

2014年03月11日

被災地3

被災地3




今年も3月11日の午後がやってきた。
若くして亡くなった友人・知人に心からご冥福を申し上げる。


画像は、私のオフィスから見た被災地の現在。
更地&草むらと化している部分には、震災前は多くの建物が存在し、私のオフィスもここの一画に有った。
現在、被災地区に立ち並ぶ建物はプレハブの簡易建築物が殆ど。
しかしプレハブで仕事を再開出来ただけでも感謝しなければと思う日々だ。
3年経過した今でも「これは復興ではなく応急処置」だと現地の人々は口にしているのが現状なのだから。

震災当時の話に戻す。
震災翌日早朝、私は安否不明のまま連絡の取れていないスタッフを探すべくオフィスに向かった。
寸断されている道路は車での通行が不可能と判断し、友人宅のガレージからバイクを出して市街地に向かう事にした。
普段なら車で20分程度で到着する距離なのだが、自宅から市街地に向かう主要道路は総て寸断されており不通。
裏道や山道を使用しながら1時間30分程度の時間が必要だった。

市街地に入っても、食料や物資を求める人や車で大渋滞・・・
私のオフィスは海沿の浸水地区に有ったので、近づくのに更に1時間を要した。
やっとの思いでオフィス近くの非浸水地区の高台までたどりついたのだが、そこから見下ろす市街地の光景は言葉を失う悲惨な状態だった。

バイクを置き、静止する自衛官や警察官をなんとか振り切って浸水地区に足を踏み入れたのだが、身長173cmの私の膝下まで浸かる程の海水が残っていた。
倒壊家屋や漂流物などで通る事が出来る部分は少ないのだが、タクティカルウエア・グッツを着用していた私はなんとか前進する事が出来た。


*書くことは間違いなのかもしれない、しかし敢て私が見た事実を書いておこうと思う。

浸水地区内部はまさに地獄絵図そのままの状態だった。
倒壊家屋の下から出ている人の手足、電信柱に引っかかったままの御遺体、流された車の中で息絶えてしまった親子、水中から見上げている御遺体、水に浮かぶちぎれた人体の一部、どの御遺体も損傷は甚大で大きな切り傷と陥没が目立っていた。

建物に乗り上げている魚船、どこからか響く助けを求める声、ありえない高さの場所に引っかかっている車や漂流物、漂流している動物の死骸、そして強烈な海と重油の混じった臭い。

目の前に広がる、今までの生活では見た事の無い現実に茫然とした。
*今でも不思議に思うのだが、御遺体を見て動揺したのは一瞬で、その後は普通に見る事が出来た。
きっと私は現実感の無い状況に対応しきれなくて、感覚が麻痺してしまっていたのだろう・・・

私は暫し茫然自失だったが、オフィスに向かわなければと、なんとか自分を奮い立たせ、やっとの事でオフィスの前まで到達した。
しかし、オフィスはかろうじて外壁が残っているだけの無残な姿となっており、オフィスの中だった場所には自動車とか業務用の冷蔵庫とか色々な漂流物で埋まりきっており全く内部には侵入不可能な状況だった。
とても残念な事なのだが、オフィス付近には何体かの御遺体が残っていた。
私は手を合わせながら御遺体を確認してまわったのだが、スタッフではなかった事に不謹慎ながら安堵した事は忘れられない。
オフィス付近の捜索可能な場所でスタッフ探しをしている時、オフィス向かい側の○○ビルの屋上から助けを求める人達が声をかけて来たのだが、家屋や車や漂流物でビルに入る事は不可能で、私に出来る事は自衛官や警察官に彼らの存在を知らせる事しかなかった・・・
「必ず救助を呼びます」と彼らに約束し、他に私一人で出来る事など皆無だったので、一旦バイクまで戻る事にした。

バイクまで戻ると、バイクの回りに人だかりが出来ていた。
「津波警報が解除になってないのに、浸水地域に入って行ったとんでもないバカのバイクだ」と怒りながら、おじいさんが教えてくれたので「私がそのとんでもないバカです」と答えると、付近にいたご婦人が「○○ビルの様子は?」と泣きながら尋ねて来た。
娘と孫が○○ビルの食品売り場に買い物に行ったまま戻らないとの事だった。
「屋上に生存者が大勢取り残されている様子で、女性もいた様子ですが残念ながら服装までは確認できませんでした」と言う事しか出来なかった。
この場での無理な慰めは無意味だと感じていての対応だったのだが、今思えば、ご婦人を励ます返答をすれば良かったと後悔している。
傍にいた警察官がオフィス付近の状況を訪ねて来たので、○○ビル屋上の生存者が救助要請している事、なんとか現場までは行けるので食料を運んで欲しいとお願いした。
真剣な表情で「了解しました、ご苦労様でした」と返事をする警察官の頼もしい姿に安堵し、何故か泣きそうになったた事は今も心に残っている。
*○○ビルの屋上の生存者達はその後まもなく全員が救出された。


結局スタッフ5人全員の生存確認が出来るのは震災から11日を必要とした。
幸いな事に2014.3.11現在、私の探したスタッフ達は元気に(元気を装って)笑顔で苺タルトを食べている。
彼女達が全員無事だった事は本当に嬉しい。


追記

被災翌日、壊された金庫やレジスターを数多く見かけた。
震災当日深夜に浸水地区に盗みに入った人が居た証拠で、人間はなんとも逞しく、欲深い生き物なのだとも痛感させられた。

震災から3年とマスコミは騒ぎ立てるが、被災地には復興とは程遠い現実しか無い。
公共事業工事を行う事だけを考えている政治家や大企業にとって、被災地は「金のなる木」なのだろう・・・
これが被災地の現実だ。




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Posted by SONNY  at 18:46 │Comments(2)3.11震災

COMMENT
3.11、
SONNYさんが震災直後に直面した現実の悲惨さ、恐怖、不安、
そして目の前の人に、なんと言葉を掛けてよいのか、、。
こちらにも届きました。

岩手県陸前高田市、
ある地元の消防団員の方は震災直後、一帯を捜索し、
圧倒的な現実に立ちすくみ、涙した。
勤め先の缶詰工場は全壊。職を失い、
ハローワークに通い詰めた。
そしてこの春、ようやく就職を果たす。
「やっとつかんだ仕事。これからが勝負だ」(本人の言葉)

自分は子供の頃、ヒーローが大好きでした。
古くは鉄人28号、ウルトラマン、、、(笑)
そして自分が何か困難に直面したら、何処からともなく助けに来てくれる、そう思ってました。
実は自身の中に困難や苦悩を乗り越えるヒーローが実在するんだと、
この消防団員の事を知って強く感じました。
Posted by soulsoul at 2014年03月14日 23:49
soulさん
私の親友のお姉さんも陸前高田市で命を落としました。
彼女を探して2週間、全滅した陸前高田市を彷徨いました。
いたるところで目にする消防隊員さん達の活躍する姿は今でも心に残っております。
Posted by SONNYSONNY at 2014年03月16日 12:10
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